由緒 | ||
往昔「天神尾天神社」は当地域の地主神として尊崇厚く、南面に御手洗の池ありて常に清水が湧出していた。祭典には神水として使用していたと伝えられている。 昭和二年の旱魃の時この湧水跡に井戸を掘ったところ、多数の弥生時代の土器が発掘されたと県史第一巻に記載されている。昭和四十五年国道バイパス(現一号線)開設の際建設省は神社前面の発掘調査を地元考古学者小野真一氏に依頼し、その駿河広池遺跡調査報告書で、この地は弥生時代から古墳時代に至る古代の住居複合遺跡で神社を中心とした北側の台地に主遺跡が推測されると云う。明治四十二年村社淺間神社に合祀されたが、昭和六十三年二月二十六日神社本庁包括下の法人として静岡県知事より認証された。 天神さま(菅原道眞公) 承和十二年(八四五)誕生 父是善 母大伴氏 元慶元年(八七七)三十三才で式部少輔兼文章博士 仁和二年(八八六)讃岐守に任ぜられ四国に赴任 昌泰二年(八九九)醍醐天皇の時右大臣に任ぜらる 左大臣は藤原時平 昌泰三年(九〇〇)天皇は宇多法皇と親しく議せられて関白の詔が下るも、公は辞退す。これを伝へ聞いた時平は、天皇の不軌を企てる者として讒言す。不軌とは天皇を廃し、弟宮齊世親王を立てやうとする陰謀のことで、その后は公の三女であった。更に三好清行も革命議を上り天皇を惑はし奉った。 延喜元年(九〇一)正月二十五日太宰権帥に任ぜられ、左遷された。 法皇(宇多法皇)に奉りし歌 ながれゆくわれはみくづとなりぬともきみしがらみとなりてとゞめよ 配所に向かいしとき、庭前の梅花を顧みて詠める こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ 延喜三年(九〇三)二月二十五日 太宰府浄妙院にて不自由で慘めな生活のすゑ、発病他界す。享年五十九才 延喜五年(九〇五)公に従ってきた味酒安行は太宰府の地に初めて神殿を建てその霊を祀る。 公の歿後藤原時平一族に不幸が続発、続いて京都に皇子が死亡するほどの疫病が流行し、御所の清涼殿にも落雷有り、また醍醐天皇の崩御(九三〇)とも相俟って、公の怨霊によるものと強く信じられた。 このため朝廷は、公の歿後の延長元年(九二三)正二位、正暦四年(九九三)左大臣正一位、幾ばくもなく太政大臣を追贈す。 また太宰府にあっては勅命により藤原仲平が奉行し、十九年をかけて太宰府天満宮の社殿堂塔を造営、更に公の慰霊のための十一面観音を祀る安楽寺を建立した。 京都北野天満宮は、天慶五年(九四二)七月十三日多治比奇子に託宣が下り、奇子の私邸に公の霊を祀ったが、天暦元年(九四七)六月九日現在の地に移築造営した。 御神号を「天満大自在天神」と称したわけは、母大伴氏が深く観音を信仰し、公自らも吉祥院法華会願文に観音像を彫ったほどであり、観音経の「自在天身」に通ずるところからと云はれてゐる。 公の著述としては「菅家文章」「菅家後集」がある。また国宝「北野天神縁起」には公の生涯及びその御神徳が詳細に述べられてゐる。 公は「筆道の三聖(弘法・天神・道風)」の一人であり、詩歌や技芸の達人としても多くの人に讃えられた。 公の御神徳が、知恵明瞭、学業成就、書道、詩文上達、芸能その他の守護神と云はれる所以である。 |
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祭神 | ||
菅原道眞公(すがわらのみちざねこう) | ||
祭儀 | ||
例祭 元旦祭 天神講 春祭(建国祭) |
十月体育の日 一月一日 一月下旬 二月十一日 |
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社殿 | ||
本殿・拝殿 境内 |
四十一.四u 八七四u |