智方神社の由緒
 建武二年七月二十三日護良親王しいせられし時、御側に侍し宮入南の方(藤原保藤の女)宮の御首を櫃に収め、御他界の情況を中央(南朝)に報ぜんがため、従者を伴い足柄街道を追手の目を避けて此の地
(駿東郡清水町長沢、当時は伊豆の国)黄瀬川の辺まで到着せり。時に八月一日(八朔)黄瀬川の水漲り渡渉すること困難なりしかは、暫時河岸に休息なされ御櫃を見るに、長の道中を運び奉る事の困難なる状を拝し、止むなく河岸近く古びたる小祠の辺に地を求め、宮の御首級を葬り、楠の一樹を植え以て墓印をなす。
 時に北条時行は家令畠山国清の手兵を併せ五千の兵を挙げ南朝に属せし延元二年まで伊豆の藩主たりし間に御首級頃を石祠となし、更に神社となし現在に至る。
 当時、足利氏の詮索を避けんがため、わざと御祭神の名を秘し神前下馬の礼を諷示するため、白馬の伝説を後世に伝へしものなり。
 白馬の伝説を考察するに、白馬即ち白騎なり。白旗は源氏なり。足利氏は源氏なり。親王の霊廟を建立せ
る北条時行は平氏なり。御祭神大塔の宮と共に白旗を忌むは当然の事なり。
邑人、子々孫々世の率遷にも絶つことなく、密に此の口伝を固く守り続け、御祭神の文献存せざるも追求する事なく(追求しても足利・徳川と源氏の世続く)木彫御首級の御神体と白馬像、御首級墳を大切に保存し今日に至り、御祭神漸く明確となり承認を得たるは御神威の程愈々広大なりと言うべきなり。慈に六百二十五年の星霜を経貴重なる史実を得たるは真に喜ばしき限なり。
昭和三十四年四月十日
勝又 源重