頼朝義経兄弟の対面石
八幡神社由緒
由緒
 治承四年(一一八〇)八月、平家追討の軍を起こした源頼朝公は関東・伊豆を平定し、十月、富士川の合戦のため、この黄瀬川八幡(やはた)の地に本営を造営しました。兄頼朝の挙兵支援のため、はるばる奥州よりかけつけた義経と、境内にて涙ながらに対面し、平家打倒を誓いあいました。今も御殿西側には兄弟が対面した記念のため、みずから植えたと伝えられる「ねじり柿」二本とともに、対面石が置かれています。
 創立年代は未詳ですが、駿河の国の桃沢神社の故地とも、伊豆の国の小川泉水神社(熊野八幡を祀る=当町湯川・両社とも平安時代に制定された「延喜式神明帳」に載せられている古社)のうち八幡を遷し祀ったともつたえられております。これ以後頼朝公は社殿の再建、境内の整備などをおこない、今川・北條氏などは諸役免除・禁制などをつけました。
 徳川家康公は天正十九年(一五九一)これまで足柄越えであった東海道を箱根越えに改めたとき、西向きであった社殿を南向きにし、新しく長沢の地を割いて街道に面した参道をつくりました。社領二十石(後に実高四十石)を給し、八幡大菩薩ときざんだご神刀をも奉納、天下太平を祈願いたしました。
 また駿河・伊豆両国境の神、街道守護の神として武門・武将はもとより往来の旅人、近郷近在の庶民にいたるまで篤い崇敬が寄せられました。
 近代国家として出発した明治政府より、同八年、神社制度の改革が行われたとき、古代からの由緒沿革をもとに、清水長泉両地域の郷社に列せられたのであります。
 ちなみに当町柿田川の湧水群は当地八幡の泉に属し、ご神域であって、当社が泉郷総社といわれた因ともなっております。
 
御祭神と御神徳
 御祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
 相殿には比売神(ひめがみ)、御母の息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)の三神をお祀りしております。
 このご祭神の御宇(みよ)は、阿治岐王仁(あちきのわに)による漢字の伝来、新羅、百済より縫工、織工、鍛冶工、船匠など工芸技術を身につけた人々の帰化、また中国より高度な養蚕、紡績の術などが伝えられました。
 それゆえに当社のご祭神は、学問振興、産業開発、工業、農業の守護神として商売繁盛、家運・社運隆昌を御神徳とし、さらには東海道守護の神、街(ちまた)の神として交通安全はもとより、寄り来る禍神(まがかみ)・悪神を祓いのける神、厄除、方除の御神徳も顕著であります。
 
境内 六九〇六.二〇u (二〇九二坪)
 旧東海道からの鳥居をくぐると、約二〇〇メートルの参道がある。この参道と公道との間は、桜が植えられ、満開になるとすばらしい景観となる。又その根方にはさつきやつつじも植えられている。参勤交代の大名や旅人はこの桜にさそわれて参詣したことであろう。また元禄や弘化年間に奉納された古い石灯篭もある。
 中程に源平池のあった小川があり、その橋をわたると境内の鬱蒼(うっそう)とした神域にはいる。しばらくいくと左手に入る小径(こみち)があり、それをたどると小さな祠(ほこら)がある。これが頼朝公を祀った白旗社(しらはたしゃ)である。表参道にでると手水舎がある。この水は東洋一をほこる柿田川の湧水を引いたもので、こヽで手水をつかうとご利益があると伝えられる。こうしてご本殿にいたり、唐破風(からはふ)の向拝(ごはい)の下でお参りするとすがすがしい心地(ここち)がする。この拝殿は、頼朝公の再建八二〇年を記念して平成四年秋に完成したものである。約二〇坪の拝殿の奥に総欅造のご本殿がある。
 社殿の前から左をみると三〇メートルほど先に台座にのった石の固まりが見える。これは東海道が箱根越えになる以前の参道にあって、大神様を守護したもうた御随神(ごずいしん)(奇石窓神(くしいわまどのかみ)・豊石窓神(とよいわまどのかみ))である。鎌倉時代の作ではなかろうか。
社殿を左にそって進むと頼朝義経兄弟が涙の対面をし、ともにすわって平家の打倒を誓いあったと伝えられる「対面石」がある。
  
社宝など
徳川家康奉納太刀 長さ 二尺八寸 乱れ焼き 銘 武州下原住康重 刀身表 八幡大菩薩
 裏 梵字数字彫刻  天正十八年(一五九〇)三月、豊臣秀吉が小田原攻めの折り、徳川家康とそろって当社に参拝、武運長久を祈願、その際奉納したと伝えられる。(町文化財)
応神天皇御神像軸(町文化財) 奉納狂歌額(町文化財) 徳川家朱印状(町文化財)
中世文書など多数有(含町文化財)