第198回 秘録・幻の明治新政府 〜維新を変えた激動の27日間〜 |
放送日
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<本放送> 平成16年11月10日(水) 21:15〜21:58 総合 全国 <再放送> 平成16年11月19日(金)(※木曜深夜)0:40〜1:23 総合 全国 |
出演者 |
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト 佐々木克(ささき・すぐる)さん 京都大学名誉教授 幕末維新史の研究者。幕末から明治にかけての政治史に関する論文・著作多数。著作に『戊辰戦争』(中公新書455・中央公論新社)『大久保利通と明治維新』(歴史文化ライブラリー45・吉川弘文館)など。
○再現ドラマ出演者 松平春嶽: 高見健(NAC) 大久保利通:土居健守(K's〔小雁〕倶楽部) 徳川慶喜: 桜木誠(NAC) 西郷隆盛: 唐木太(舞夢プロ) 岩倉具視: 川上哲(アクターズ・ハウス) 山内容堂: 田中浩(アクターズ・ハウス) |
番組概要 |
その時:慶応4(1868)年1月5日午前8時 |
出来事:錦の御旗が、鳥羽伏見の戦場に翻った時 (年月日は旧暦、時刻は『戊辰役戦史』を参照しました) |
鳥羽伏見の戦いで錦の御旗があがった。その瞬間、徳川方は朝敵、薩長は官軍という、その後の明治日本の枠組みが世に示された。しかし実は、全く異なる新政府構想が鳥羽伏見の戦いの直前まで進んでいたのである。その政権の中枢に迎え入れられるはずだったのは、徳川慶喜、まさにその人である。王政復古から鳥羽伏見にて錦の御旗があがるまでの27日間、幻のように存在した、知られざる徳川込みの新政府構想。それが大久保らの画策によって潰えていく経過を、慶喜の新政府入りを推し進めた松平春嶽の視線で描く。 |
番組の内容について |
■「その時」について 今回の「その時」である慶応4年1月5日は、鳥羽伏見の戦場の前線に錦の御旗が翻った時です。鳥羽伏見の戦いが始まったのは同年1月3日、錦の御旗が京都御所を出発した(仁和寺宮が征討将軍となり、「官軍」が出発した)のは1月4日です。 番組では、錦の御旗が実際の戦場に翻り、敵方であった旧幕府軍にも認識された時として、1月5日を「その時」としております。時刻につきましては前述の通り、戊辰戦争の戦況を詳細に記した図書である『戊辰役戦史』の記述に基づいております。
■元号について 今回のその時にあたる慶応4年は、その年の9月に改元して明治元年となります。番組では改元前の出来事を述べていますので、慶応4年と表記しています。
■人名呼称・地名呼称について 人名の呼称については、視聴者の方にわかりやすいよう、当時の姓名ではなく、一般的に知られている通称で呼んでおります。主な登場人物の番組内での呼称と当時の呼称は以下の通りです。 ・松平春嶽・・・松平慶永(春嶽は号) ・大久保利通・・・大久保一蔵 ・西郷隆盛・・・西郷(大島)吉之助 ・山内容堂・・・山内豊信(容堂は号)
■小御所での会議における、各人の発言について 『丁卯日記』『岩倉公実記』『徳川慶喜公伝』の記録に基づき、視聴者の方にわかりやすいよう、平易な表現に改めています。
■小御所会議に天皇が臨席していたのでは? 今年出されました、佐々木克さんの『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館 2004年)では、「小御所会議では明治天皇は臨席していなかった」とされています。今回はこの佐々木さんの説に従い、明治天皇欠席の状態で再現ドラマを撮影しています。
■春嶽の慶喜に対する進言について 「ひとまず京都から退き、家臣たちの怒りが鎮まるのを待つことにいたしましょう。」『丁卯日記』12月11日の記述。分りやすいよう、平易な表現に改めています。
■大坂城天守閣について 当時(慶応3年)には、大坂城の天守閣は焼失しており、存在しません。番組では、大阪へ向ったイメージとして現在の天守閣の映像を使用しています。また、当時は「大阪」ではなく「大坂」と表記していたため、「大坂」の表記としています。
■西郷隆盛の手紙について 「王政復古以来、事は思うようには運んでいない。慶喜が大坂へ行ってからは、状況がさらに悪くなっている。」 「慶応3年12月28日付、蓑田伝兵衛宛書状」部分(『西郷隆盛全集』第二巻所収)
■春嶽の岩倉具視に対する説得、岩倉の妥協案について 松平春嶽の岩倉に対する説得 「今、徳川家臣団は、まさに一触即発。慶喜殿でも押さえる事は困難です。徳川家臣団が納得する条件にしなければ、都に大きな災いを引き起こす事は避けられません。」(『丁卯日記』12月14日の記述。分りやすいよう、平易な表現に改めています。) 岩倉の妥協案 「慶喜の官位は、降格ではなく、自ら辞退するという形にする。また、領地については、「返上」ではなく、新政府の財源として慶喜が提供するという形をとる。」(『丁卯日記』12月14日・12月16日の記述より。)
■大久保利通の書簡について 「慶喜への通達書には、『徳川は領地を返上する』という言葉を用い、一字一句変えてはならない。」 「慶応3年12月28日付 蓑田伝兵衛宛報告書」部分より(『大久保利通文書』第二巻所収)。分りやすいよう、平易な表現に改めています。
■12月24日の春嶽の発言について 「もし我々の案を慶喜が受け入れない場合はやむをえない。その時は慶喜に罪ありと認め、徳川追討の兵を挙げてもよい。」 『丁卯日記』12月24日記述より。
■「王政復古から●日目」という表現について 王政復古が行われた日を1日目としています。王政復古から「●日後」ではありません。
■春嶽が報告を受けたときに雪が降っているが? 松平春嶽の日記『滞京日紙』にはその日の天気が記されています。春嶽が薩摩藩邸焼き打ち事件の報を受けた慶応3年12月30日は日記で「雪」となっています。それに従い、雪のシーンを使いました。
■大坂城内の兵士の発言「薩摩を討つためには・・・」について 「薩摩を討つために、上様を刺してでも、京都へ向かう。」 『徳川慶喜公伝』第4巻より。
■大久保利通の岩倉宛建白書「仁和寺宮を・・・」について 「皇族・仁和寺宮を徳川征東将軍に任命し、軍勢を伏見に送る。そして錦の御旗を翻し、官軍の威光を知らしめよ。」 「一月三日 岩倉・三条宛建白書」より(『大久保利通文書』第2巻所収)。 (※仁和寺宮は「征討将軍」ですが、この大久保建白書には「征東」と書かれているため、原文に従い「東」と表記しました)
■春嶽の回想「この頃、取るべき道を・・・」について 「この頃、とるべき道を確信していたのは、薩摩・長州のみ。 他はみな、徳川につくか、薩長につくか、二つの論を心に抱いていた。」 松平春嶽が明治に記した回想録『逸事史補』の記述です。
■春嶽に下された命令「都に向う徳川の・・・」について 「戊辰日記」1月3日の記述より。 「都に向かう徳川の軍勢をただちに大坂へ引き返させるように。止むを得ない場合は、徳川方を朝敵とする。」
■春嶽の決意「天下の大乱を・・・垣となし・・・」について 「戊辰日記」1月3日の記述。 「天下の大乱を防ぐために、我が越前の兵を、徳川・薩摩の間に置いて垣となし、何としても両軍を分けさせる。」視聴者の方にわかりやすいよう、平易な表現に改めています。
■鳥羽伏見の開戦時刻について 前述『戊辰役戦史』を参照しました。
■「土佐は参戦せず」について 『戊辰役戦史』P74「4 土佐兵の参戦と戦果」によれば、土佐藩は前藩主・山内容堂の厳命により、戦争の当初は参戦を禁じられていました。また4日に山地忠七が戦闘に参加しましたが、すぐに藩命により止められました。その他一部が藩命に背いて戦闘に参加しましたが、個人的判断であるため、「土佐は参戦しなかった」という表現にしました。
■春嶽参内の時刻について 松平春嶽の日記『滞京日紙』1月3日の記述より。
■比叡山還幸を止める言葉「天皇の輿が・・・」について 『岩倉公実記』中巻「鳥羽伏見二道開戦の事」より。 「天皇の輿がひとたび動けば、天下の安定はない。戦況を確かめるまで決して天皇の比叡山還幸を奏上してはいけません。」視聴者の方にわかりやすいよう、平易な表現に改めています。
■慶応四年一月三日深夜の招集について 時刻は松平春嶽の日記『滞京日紙』参照。また、会議の内容については『滞京日紙』の他、『岩倉公実記』『山内家史料 幕末維新 第8巻』所収の諸記録に拠り構成しております。
■山内容堂の言葉「この戦いは・・・」について 「岩倉公実記」中巻より。 「この戦いは徳川と薩長の私闘である。新政府はまず双方に停戦の命令を出し、それに従わない側を討つべきなのに、なぜ今、徳川征討の命を出そうするのか。」
■西郷隆盛の手紙「初戦に大勝」について 「初戦に大勝。(中略)明日は錦の御旗を押し立て、東寺に本陣をお据え下され候えば、 一倍官軍の勢いを増し候事に御座候。」 「西郷隆盛全集」第2巻所収。
■春嶽の書状について 「偽わりの勅令による官軍が大勝し徳川勢は伏見に敗れ、飛散。憤懣に耐え難く候。」 「正月五日付 松平茂昭宛書簡」より。
■元号「明治」の制定の経緯 有職故実の研究家・所功さんの説によると、従来の元号制定は、学者の公家(菅原氏の一族など)から元号の候補を一人2〜5個ずつ提出し、それらすべての吉兆を朝議で話し合って決定するという方法が取られてきました。しかし、明治の元号を決定する時は、それらの方法が「効率的でない」という理由から、会議ではなく松平春嶽個人が候補を少数(2〜3個)に絞り、さらにそれを天皇が籤引き(くじ)で選び、元号を決定したとされています。 また、元号制定のエピソードは、『岩倉公実記』「年号明治と改元の事」、ならびに『逸事史補』(松平春嶽の回想録)に載っています。 「明治」の典拠・・・『易経』(『周易』・古代中国の占いに関する書)の一節です。書き下しは「聖人南面して天下を聴き、明に向いて治む」意味は「聖人君子が天下に耳を傾ければ、世は明るく平和に治まる」という意味です。 南面・・・君主となる 聴く・・・天下万民の声によく耳を傾ける。転じて政治を行うの意
■松平春嶽の墨書と全文 霊山歴史館所蔵の書。常設展示はされておりません。 中国の古典・『孟子』の一節で、孔子が語った「大勇」についての言葉です。 墨書の全文は、「吾嘗て大勇を夫子に聞けり。『自ら反りみて縮からずんば、褐寛博といえども、吾惴れざらんや。自ら反りみて縮かれば、千万人といえども、吾往かん。』」 (訳)私はむかし、大勇とは何かを孔子様に伺ったことがある。孔子がおっしゃるには、「自らを省みて、正しくないとわかれば、たとえ相手がとるにたらないものでも私は恐れる。しかし自らを省みて、正しいと思うのであれば、私は千万の敵であろうと恐れることはない。」 「縮」・・・義理にあう、正しい 「褐寛博」・・・毛織のダラダラの衣服のことで、転じて貧しい人、身分の低い人、取るに足らない人のことを指します。 |
番組中に登場した資料について |
【人物】 ●松平春嶽写真(羽織袴)・・・福井市立郷土歴史博物館 ●松平春嶽写真(衣冠姿)・・・ 同上 ●松平春嶽写真(晩年)・・・ 同上 ●山内容堂写真・・・
同上 ●大久保利通写真・・・大久保利ひろ氏(「ひろ」は「券」の上半分と泰の下半分) ●西郷隆盛肖像画・・・尚古集成館 ●岩倉具視写真・・・岩倉公旧蹟保存会 ●徳川慶喜写真・・・徳川慶朝氏 【文書・絵画】 ○「虎豹変革備考」(松平春嶽の政治改革案)・・・福井市立郷土歴史博物館 ○「徳川慶喜への沙汰書」(『復古記』部分)・・・東京大学史料編纂所 ○「大久保利通建白書」(活字)・・・『大久保利通文書』第2巻 ○「兵隊を坂薩の中間に並列して垣となし」『戊辰日記』・・福井県立図書館(松平文庫・松平宗紀氏所蔵) ○「松平春嶽の日記」(滞京日紙)・・・福井市立郷土歴史博物館 ○「西郷隆盛書簡」(大久保利通文書所収)・・・国立歴史民俗博物館 ○「松平春嶽書簡」(慶応4年正月五日付)・・・福井市立郷土歴史博物館(越葵文庫・松平宗紀氏所蔵)
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参考文献 |
(史料) 中根雪江『再夢紀事・丁卯日記』(日本史籍協会叢書
105)(東京大学出版会 1974年) 中根雪江『戊辰日記』(日本史籍協会叢書 ;
178)(東京大学出版会 1973年 ) 『松平春嶽全集』(明治百年史叢書
第197巻-第200巻)(原書房 1973年) 伴五十嗣郎編『松平春嶽未公刊書簡集』(思文閣書店 1991年) 大山柏『戊辰役戦史(上)』(時事通信社 1965年) 多田好問『岩倉公実記(中)』(明治百年史叢書
第67巻)(原書房 1968年) 『大久保利通文書』第二巻(日本史籍協会叢書
29)(東京大学出版会 1967年) 『大久保利通伝』(中)(臨川書店 1970年) 『大久保利通日記』(日本史籍協会叢書
; 26-27)(東京大学出版会 1969年) 『西郷隆盛全集』(
大和書房 1976年) 『山内家史料 幕末維新』第八巻 (山内家宝物資料館 1986年) 『復古記』(第1冊 -
第15冊)
東京大学出版会 1974年) 『幕末維新史料叢書4 逸事史補・守護職小史』(人物往来社 1968年) 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』
(平凡社 1968年)
(参考書) 三上一夫『幕末維新と松平春嶽』(吉川弘文館 2004年) 三上一夫・舟澤茂樹編『松平春嶽のすべて』(新人物往来社 1999年) 家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館 1995年) 『孝明天皇と「一会桑」
』(文春新書 2002年) 佐々木克『戊辰戦争』(中公新書455 1977年) 佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館 1998年) 川端太平『人物叢書 松平春嶽』(吉川弘文館 1967年) 松浦玲『徳川慶喜』(中央公論社 1975年) |