2004年 11月分 放映リスト

11月3日(水・祝)放送 第197回
義経はなぜ死んだのか 〜源頼朝と奥州藤原氏の攻防〜

11月10日(水)放送 第198回
秘録・幻の明治新政府 〜維新を変えた激動の27日間〜

11月17日(水)放送 第199回
サムライ魂でデパートを創れ! 〜近代百貨店誕生物語〜

11月24日(水)放送 第200回
ニッポンに学べ!タイの”明治維新” 〜「王様と私」・ラーマ五世の苦闘〜



第197回
義経はなぜ死んだのか
〜源頼朝と奥州藤原氏の攻防〜

放送日

<本放送>
平成16年11月3日(水・祝)21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成16年11月9日(火) 17:15〜17:58 BS2 全国
平成16年11月12日(金)(11日(木)深夜)0:15〜0:58 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー

○スタジオゲスト
入間田宣夫さん (東北大学教授)

○再現映像出演者
源義経役・・・小谷隆仁 〔K’S倶楽部〕
源頼朝役・・・上野央 〔株式会社グレース〕
藤原秀衡役・・・米田昌弘 〔株式会社NAC〕
藤原泰衡役・・・晝田(ひるた)英治 〔株式会社グレース〕
番組概要

その時:文治5(1189)年 閏4月30日

出来事:源義経、藤原泰衡に襲撃され自害す
数々の戦いに勝利した天才武将”源義経は、奥州藤原氏の当主、藤原泰衡の襲撃を受け、31才で命を落とした。平氏を滅ぼし、源氏政権を樹立させた最大の功労者であった義経が、なぜ鎌倉から遠く離れた、奥州の地で若くして死ななければならなかったのか。
 その裏には、兄頼朝との確執だけでなく、天下統一をめざす「鎌倉」と北の独立を死守する「奥州」との激しい勢力争いがあった。全国制覇を一心に目指す兄・頼朝の冷徹な計算と、奥州の独立政権を維持しようとする北の覇者、藤原秀衡の戦略。両者の生き残りをかけた壮絶な権力争いの中で、義経は悲劇の死へと追いつめられてゆく。
 時代の転換期に、その実力ゆえに抗争の矢面に立たざるを得なかった英雄の姿があった。
番組の内容について

■今回の番組は何を元に作ったのか?
「吾妻鏡」、「玉葉」、「義経記」をもとに、その他伝承や研究者の意見を取り入れて制作。
 主にアドバイスいただいたのは、ゲストの東北大学入間田教授。

■なぜ「義経記」を使ったか?
 義経の生涯については謎が多く、資料が大変少ないため(冒頭で松平キャスターが「伝承も交えて」と述べている)。
 また伝承の中でも、状況証拠から考えて「ありえた」と考えられるものを引用している。

■スタジオでの源平、藤原氏の勢力図
 義経が兄・頼朝の挙兵に参じた頃を想定して、作成。
 NHKの番組資料を基に原案を作成し、東北大入間田教授の意見を参考に制作。

■「吾妻鏡」の書名について
 吾妻鑑、東鏡、東鑑とも書く。
 「国史大辞典」では、吾妻鏡と記載されている。

■チンギス・カンの呼称について 
▽「チンギス」と「ジンギス」の違い
日本ではチンギスの呼称が一般的な事から、「チンギス」を採用している。古い発音ではそもそも「ジンギス」に近い音であったとも言われているが、中国の漢字表記で「成」の字が当てられ
「ch=チ」という発音をする事から、日本には「チンギス」の形で移入された。
「ジンギス」の言い方については、現在も確証がないことから、そのまま「チンギス」の呼称を用いています。
▽「カン」と「ハン」の違い
後世になってモンゴル語の発音が変化し、現在では「ハン」に近い発音になっている。
但し、モンゴル時代までは「カン」に近い音だった事が明らかになっている。 教科書では「チンギス=ハン」となっているが、最新の研究結果をふまえて、「カン」 の表記を使用している。
▽「カン」と「カーン」の違い
 チンギスに限らず当時の遊牧君長は権力の大小に関わらず、みな「カン」と称した。
その後、後を嗣いだオゴデイがモンゴル皇帝たる自分だけの称号として「カアン」を名乗り始める。
それが日本語表記で「カーン」とされる事があり、以後混同して「カーン」あるいは「ハーン」とされる事があるが、「カン」が正確な表記となりる。

■平泉のCGについて
 現在行われている発掘調査をもとに、平泉町が作成。藤原秀衡時代の平泉の都の様子を想定している。CGは、岩手県平泉町役場3F「世界遺産推進室」にて購入が可能。
(問い合わせ先→0191−46−2218)

■秀衡死去の際、起請文の灰を飲む再現ドラマについて
 義経、泰衡、国衡の3人が証文を焼きその灰を飲んだという記録は無いが、東北大入間田教授によると当時、武士が約束を交わす際に行われた作法であるとのことから採用した。
 (藤原4代主人公としたNHK大河ドラマ「炎立つ」にも、同様のシーンがある)。

■江島神社
 地名は「江ノ島」と記載するが、神社は「江島神社」が正式名称のためこちらを使用した。
 八臂(はっぴ)弁財天は鎌倉時代初期の作品で、江島神社にて見学可能。

■エピローグの対面石について
 静岡県清水町八幡神社(はちまん神社/やはた神社)にて見学可能。
くわしくは、八幡神社ホームページ → http://www.inarijinja.com/yahata/hatiyuisho.htm
なお、八幡神社の呼び名は、「はちまん」と「やはた」の2通りあるが、地元の人々が広く「はちまんじんじゃ」と呼んでいるため、番組では八幡神社宮司と合意の上で「はちまん」を使用した。

番組中に登場した資料について

・「源義経像」・・・中尊寺(岩手県)
・「伝・源頼朝像」・・・神護寺(京都)
・「藤原秀衡像」・・・毛越寺(岩手県)
・「平清盛像」・・・宮内庁三の丸尚蔵館(東京都)
・「腰越状」・・・満福寺(神奈川県)
・「吾妻鏡」・・・国立公文書館内閣文庫(東京都)
・「玉葉」・・・同上

参考文献
「義経記」日本古典文学大系 岩波書店
「全釈 吾妻鏡」新人物往来社
「玉葉」名著刊行会
「シンポジウム 源義経と平泉」 平泉町(平成12年)
「義経伝説をゆく」 河北新報出版センター
「藤原四代のすべて」 七宮A三編 新人物往来社  他




第198回
秘録・幻の明治新政府
〜維新を変えた激動の27日間〜

放送日

<本放送>
平成16年11月10日(水) 21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成16年11月19日(金)(※木曜深夜)0:40〜1:23 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー

○スタジオゲスト
佐々木克(ささき・すぐる)さん 京都大学名誉教授
幕末維新史の研究者。幕末から明治にかけての政治史に関する論文・著作多数。著作に『戊辰戦争』(中公新書455・中央公論新社)『大久保利通と明治維新』(歴史文化ライブラリー45・吉川弘文館)など。

○再現ドラマ出演者
松平春嶽: 高見健(NAC)
大久保利通:土居健守(K's〔小雁〕倶楽部)
徳川慶喜: 桜木誠(NAC)
西郷隆盛: 唐木太(舞夢プロ)
岩倉具視: 川上哲(アクターズ・ハウス)
山内容堂: 田中浩(アクターズ・ハウス)
番組概要

その時:慶応4(1868)年1月5日午前8時

出来事:錦の御旗が、鳥羽伏見の戦場に翻った時
(年月日は旧暦、時刻は『戊辰役戦史』を参照しました)
 鳥羽伏見の戦いで錦の御旗があがった。その瞬間、徳川方は朝敵、薩長は官軍という、その後の明治日本の枠組みが世に示された。しかし実は、全く異なる新政府構想が鳥羽伏見の戦いの直前まで進んでいたのである。その政権の中枢に迎え入れられるはずだったのは、徳川慶喜、まさにその人である。王政復古から鳥羽伏見にて錦の御旗があがるまでの27日間、幻のように存在した、知られざる徳川込みの新政府構想。それが大久保らの画策によって潰えていく経過を、慶喜の新政府入りを推し進めた松平春嶽の視線で描く。
番組の内容について

■「その時」について
 今回の「その時」である慶応4年1月5日は、鳥羽伏見の戦場の前線に錦の御旗が翻った時です。鳥羽伏見の戦いが始まったのは同年1月3日、錦の御旗が京都御所を出発した(仁和寺宮が征討将軍となり、「官軍」が出発した)のは1月4日です。
 番組では、錦の御旗が実際の戦場に翻り、敵方であった旧幕府軍にも認識された時として、1月5日を「その時」としております。時刻につきましては前述の通り、戊辰戦争の戦況を詳細に記した図書である『戊辰役戦史』の記述に基づいております。

■元号について
 今回のその時にあたる慶応4年は、その年の9月に改元して明治元年となります。番組では改元前の出来事を述べていますので、慶応4年と表記しています。

■人名呼称・地名呼称について
 人名の呼称については、視聴者の方にわかりやすいよう、当時の姓名ではなく、一般的に知られている通称で呼んでおります。主な登場人物の番組内での呼称と当時の呼称は以下の通りです。
・松平春嶽・・・松平慶永(春嶽は号)
・大久保利通・・・大久保一蔵
・西郷隆盛・・・西郷(大島)吉之助
・山内容堂・・・山内豊信(容堂は号)

■小御所での会議における、各人の発言について
『丁卯日記』『岩倉公実記』『徳川慶喜公伝』の記録に基づき、視聴者の方にわかりやすいよう、平易な表現に改めています。

■小御所会議に天皇が臨席していたのでは?
 今年出されました、佐々木克さんの『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館 2004年)では、「小御所会議では明治天皇は臨席していなかった」とされています。今回はこの佐々木さんの説に従い、明治天皇欠席の状態で再現ドラマを撮影しています。

■春嶽の慶喜に対する進言について
 「ひとまず京都から退き、家臣たちの怒りが鎮まるのを待つことにいたしましょう。」『丁卯日記』12月11日の記述。分りやすいよう、平易な表現に改めています。

■大坂城天守閣について
 当時(慶応3年)には、大坂城の天守閣は焼失しており、存在しません。番組では、大阪へ向ったイメージとして現在の天守閣の映像を使用しています。また、当時は「大阪」ではなく「大坂」と表記していたため、「大坂」の表記としています。

■西郷隆盛の手紙について
「王政復古以来、事は思うようには運んでいない。慶喜が大坂へ行ってからは、状況がさらに悪くなっている。」
 「慶応3年12月28日付、蓑田伝兵衛宛書状」部分(『西郷隆盛全集』第二巻所収)

■春嶽の岩倉具視に対する説得、岩倉の妥協案について
松平春嶽の岩倉に対する説得
「今、徳川家臣団は、まさに一触即発。慶喜殿でも押さえる事は困難です。徳川家臣団が納得する条件にしなければ、都に大きな災いを引き起こす事は避けられません。」(『丁卯日記』12月14日の記述。分りやすいよう、平易な表現に改めています。)
岩倉の妥協案
「慶喜の官位は、降格ではなく、自ら辞退するという形にする。また、領地については、「返上」ではなく、新政府の財源として慶喜が提供するという形をとる。」(『丁卯日記』12月14日・12月16日の記述より。)

■大久保利通の書簡について
「慶喜への通達書には、『徳川は領地を返上する』という言葉を用い、一字一句変えてはならない。」
「慶応3年12月28日付 蓑田伝兵衛宛報告書」部分より(『大久保利通文書』第二巻所収)。分りやすいよう、平易な表現に改めています。

■12月24日の春嶽の発言について
「もし我々の案を慶喜が受け入れない場合はやむをえない。その時は慶喜に罪ありと認め、徳川追討の兵を挙げてもよい。」
『丁卯日記』12月24日記述より。

■「王政復古から●日目」という表現について
王政復古が行われた日を1日目としています。王政復古から「●日後」ではありません。

■春嶽が報告を受けたときに雪が降っているが?
松平春嶽の日記『滞京日紙』にはその日の天気が記されています。春嶽が薩摩藩邸焼き打ち事件の報を受けた慶応3年12月30日は日記で「雪」となっています。それに従い、雪のシーンを使いました。

■大坂城内の兵士の発言「薩摩を討つためには・・・」について
「薩摩を討つために、上様を刺してでも、京都へ向かう。」
『徳川慶喜公伝』第4巻より。

■大久保利通の岩倉宛建白書「仁和寺宮を・・・」について
「皇族・仁和寺宮を徳川征東将軍に任命し、軍勢を伏見に送る。そして錦の御旗を翻し、官軍の威光を知らしめよ。」
「一月三日 岩倉・三条宛建白書」より(『大久保利通文書』第2巻所収)。
(※仁和寺宮は「征討将軍」ですが、この大久保建白書には「征東」と書かれているため、原文に従い「東」と表記しました)

■春嶽の回想「この頃、取るべき道を・・・」について
「この頃、とるべき道を確信していたのは、薩摩・長州のみ。
他はみな、徳川につくか、薩長につくか、二つの論を心に抱いていた。」
松平春嶽が明治に記した回想録『逸事史補』の記述です。

■春嶽に下された命令「都に向う徳川の・・・」について
「戊辰日記」1月3日の記述より。
「都に向かう徳川の軍勢をただちに大坂へ引き返させるように。止むを得ない場合は、徳川方を朝敵とする。」

■春嶽の決意「天下の大乱を・・・垣となし・・・」について
「戊辰日記」1月3日の記述。
「天下の大乱を防ぐために、我が越前の兵を、徳川・薩摩の間に置いて垣となし、何としても両軍を分けさせる。」視聴者の方にわかりやすいよう、平易な表現に改めています。

■鳥羽伏見の開戦時刻について
前述『戊辰役戦史』を参照しました。

■「土佐は参戦せず」について
 『戊辰役戦史』P74「4 土佐兵の参戦と戦果」によれば、土佐藩は前藩主・山内容堂の厳命により、戦争の当初は参戦を禁じられていました。また4日に山地忠七が戦闘に参加しましたが、すぐに藩命により止められました。その他一部が藩命に背いて戦闘に参加しましたが、個人的判断であるため、「土佐は参戦しなかった」という表現にしました。

■春嶽参内の時刻について
松平春嶽の日記『滞京日紙』1月3日の記述より。

■比叡山還幸を止める言葉「天皇の輿が・・・」について
『岩倉公実記』中巻「鳥羽伏見二道開戦の事」より。
「天皇の輿がひとたび動けば、天下の安定はない。戦況を確かめるまで決して天皇の比叡山還幸を奏上してはいけません。」視聴者の方にわかりやすいよう、平易な表現に改めています。

■慶応四年一月三日深夜の招集について
時刻は松平春嶽の日記『滞京日紙』参照。また、会議の内容については『滞京日紙』の他、『岩倉公実記』『山内家史料 幕末維新 第8巻』所収の諸記録に拠り構成しております。

■山内容堂の言葉「この戦いは・・・」について
「岩倉公実記」中巻より。
「この戦いは徳川と薩長の私闘である。新政府はまず双方に停戦の命令を出し、それに従わない側を討つべきなのに、なぜ今、徳川征討の命を出そうするのか。」

■西郷隆盛の手紙「初戦に大勝」について
「初戦に大勝。(中略)明日は錦の御旗を押し立て、東寺に本陣をお据え下され候えば、
一倍官軍の勢いを増し候事に御座候。」
「西郷隆盛全集」第2巻所収。

■春嶽の書状について
「偽わりの勅令による官軍が大勝し徳川勢は伏見に敗れ、飛散。憤懣に耐え難く候。」
「正月五日付 松平茂昭宛書簡」より。

■元号「明治」の制定の経緯
有職故実の研究家・所功さんの説によると、従来の元号制定は、学者の公家(菅原氏の一族など)から元号の候補を一人2〜5個ずつ提出し、それらすべての吉兆を朝議で話し合って決定するという方法が取られてきました。しかし、明治の元号を決定する時は、それらの方法が「効率的でない」という理由から、会議ではなく松平春嶽個人が候補を少数(2〜3個)に絞り、さらにそれを天皇が籤引き(くじ)で選び、元号を決定したとされています。
また、元号制定のエピソードは、『岩倉公実記』「年号明治と改元の事」、ならびに『逸事史補』(松平春嶽の回想録)に載っています。
「明治」の典拠・・・『易経』(『周易』・古代中国の占いに関する書)の一節です。書き下しは「聖人南面して天下を聴き、明に向いて治む」意味は「聖人君子が天下に耳を傾ければ、世は明るく平和に治まる」という意味です。
南面・・・君主となる 聴く・・・天下万民の声によく耳を傾ける。転じて政治を行うの意

■松平春嶽の墨書と全文
霊山歴史館所蔵の書。常設展示はされておりません。
中国の古典・『孟子』の一節で、孔子が語った「大勇」についての言葉です。
墨書の全文は、「吾嘗て大勇を夫子に聞けり。『自ら反りみて縮からずんば、褐寛博といえども、吾惴れざらんや。自ら反りみて縮かれば、千万人といえども、吾往かん。』」
(訳)私はむかし、大勇とは何かを孔子様に伺ったことがある。孔子がおっしゃるには、「自らを省みて、正しくないとわかれば、たとえ相手がとるにたらないものでも私は恐れる。しかし自らを省みて、正しいと思うのであれば、私は千万の敵であろうと恐れることはない。」
「縮」・・・義理にあう、正しい
「褐寛博」・・・毛織のダラダラの衣服のことで、転じて貧しい人、身分の低い人、取るに足らない人のことを指します。

番組中に登場した資料について

【人物】
●松平春嶽写真(羽織袴)・・・福井市立郷土歴史博物館
●松平春嶽写真(衣冠姿)・・・ 同上
●松平春嶽写真(晩年)・・・  同上
●山内容堂写真・・・      同上
●大久保利通写真・・・大久保利ひろ氏(「ひろ」は「券」の上半分と泰の下半分)
●西郷隆盛肖像画・・・尚古集成館
●岩倉具視写真・・・岩倉公旧蹟保存会
●徳川慶喜写真・・・徳川慶朝氏
【文書・絵画】
○「虎豹変革備考」(松平春嶽の政治改革案)・・・福井市立郷土歴史博物館
○「徳川慶喜への沙汰書」(『復古記』部分)・・・東京大学史料編纂所
○「大久保利通建白書」(活字)・・・『大久保利通文書』第2巻
○「兵隊を坂薩の中間に並列して垣となし」『戊辰日記』・・福井県立図書館(松平文庫・松平宗紀氏所蔵)
○「松平春嶽の日記」(滞京日紙)・・・福井市立郷土歴史博物館
○「西郷隆盛書簡」(大久保利通文書所収)・・・国立歴史民俗博物館
○「松平春嶽書簡」(慶応4年正月五日付)・・・福井市立郷土歴史博物館(越葵文庫・松平宗紀氏所蔵)

参考文献
(史料)
中根雪江『再夢紀事・丁卯日記』(日本史籍協会叢書 105)(東京大学出版会 1974年)
中根雪江『戊辰日記』(日本史籍協会叢書 ; 178)(東京大学出版会 1973年 )
『松平春嶽全集』(明治百年史叢書 第197巻-第200巻)(原書房 1973年)
伴五十嗣郎編『松平春嶽未公刊書簡集』(思文閣書店 1991年)
大山柏『戊辰役戦史(上)』(時事通信社 1965年)
多田好問『岩倉公実記(中)』(明治百年史叢書 第67巻)(原書房 1968年)
『大久保利通文書』第二巻(日本史籍協会叢書 29)(東京大学出版会 1967年)
『大久保利通伝』(中)(臨川書店 1970年)
『大久保利通日記』(日本史籍協会叢書 ; 26-27)(東京大学出版会 1969年)
『西郷隆盛全集』( 大和書房 1976年)
『山内家史料 幕末維新』第八巻 (山内家宝物資料館 1986年)
『復古記』(第1冊 - 第15冊) 東京大学出版会 1974年)
『幕末維新史料叢書4 逸事史補・守護職小史』(人物往来社 1968年)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 (平凡社 1968年)

(参考書)
三上一夫『幕末維新と松平春嶽』(吉川弘文館 2004年)
三上一夫・舟澤茂樹編『松平春嶽のすべて』(新人物往来社 1999年)
家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館 1995年)
『孝明天皇と「一会桑」 』(文春新書 2002年)
佐々木克『戊辰戦争』(中公新書455 1977年)
佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館 1998年)
川端太平『人物叢書 松平春嶽』(吉川弘文館 1967年)
松浦玲『徳川慶喜』(中央公論社 1975年)




第199回
サムライ魂でデパートを創れ!
〜近代百貨店誕生物語〜

放送日

<本放送>
平成16年11月17日(水) 21:15〜21:58 総合 全国
<再放送>
平成16年11月26日(金)(※木曜深夜)0:40〜1:23 総合 全国
(※関東地方は休止)
出演者
松平 定知 アナウンサー

○スタジオゲスト
内橋克人(うちはしかつと)さん
経済評論家 「人間復興の経済学」(共著 朝日新聞社)「節度の経済学の時代」(朝日新聞社) 「匠の時代」(講談社)など

○VTR出演
神野由紀(じんのゆき)さん 関東学院大学助教授(デザイン史) 
主著「趣味の誕生〜百貨店がつくったテイスト」(勁草書房)

○再現ドラマ出演
日比翁助役  白川明彦(MC企画) 
番組概要

その時:大正3(1914)年10月1日

出来事:東京・日本橋に近代的デパートが誕生した時
 明治中期、近代化が進むご時世ながら、商業は江戸期以来のままで、老舗の三井呉服店でさえ経営悪化に苦しんでいた。その再建を一人のサムライ魂を持つ男が任される。士族出身の銀行員・日比翁助(1860-1931)。日比は呉服店の再建にとどまらず、欧米に誕生していた「デパート」に再生することを決意。改革に乗り出す。
 日比が拠り所としたのは「“利”より”義”を重んずる武士の魂」で「才知ある商売」を行う「士魂商才」の思想。日比はまず、商業倫理が衰退した業界に、「義」という武士的倫理観を持ち込み、客のための商売、という商道徳の再構築をはかる。さらに西洋の一流の百貨を庶民に啓蒙することを目指して、呉服店をデパートに転換。そこで赤字覚悟で博覧会や美術展などの文化事業を積極的に実施した。日比は商いを通じ国家・社会に貢献するという、「公」の精神を体現しようとしていたのだ。この日比の方針は、守旧派の抵抗や批判を受けながらも、日露戦争後の産業発展に伴い急増した大都市の中・上流層のニーズと合致し、改革開始から十年後の「近代的デパートの開店」により結実する。
 番組では、景気低迷や企業倫理が問われる中、傾きかけた呉服店を近代的デパートへ再生させることを通じて、「商いによる社会貢献」を実現しようとした日比翁助の「士魂商才」の挑戦のドラマを描く。
番組の内容について

■「百貨店」でなくなぜ「デパート」という言葉を主に使うのか?
日本では「デパートメントストア」の訳語として「百貨店」という言葉が広く認知されています。しかし、主人公の日比翁助がデパートメントストアをつくろうとした明治37年頃には百貨店という訳語がまだなく、当時日比達は「デパートメントストア」という言葉を多用していたため、主に「デパートメントストア」の略語である「デパート」を主に番組では使用しました。

■なぜ大正3(1914)年を「今日のその時」としたのか?
今年がデパート誕生百年という記事を見たことがあるがどういう関係なのか?
日本のデパートの歴史は明治37(1904)年に三井家から独立した三越呉服店の専務取締役となった日比翁助が「販売の商品は今後一層その種類を増加し(中略)米国におこなわるるデパートメントストアの一部を実現致すべく」という「デパートメントストア宣言」をしたことに始まるといわれています。今年はその「宣言」から丁度百年目にあたります。そのため「デパート誕生百年」というとらえられ方がされています。しかしこの「宣言」をした時は、まだ「デパート」が実質的に生まれたわけではなく、その後徐々に時間をかけ、呉服店の「デパート化」がすすめられます。
番組では演出上、「デパートメントストア宣言」をとりあげていませんが、同じ時期、日比が従業員に対して「デパートメントストア宣言」をしたことを紹介しています。これは日比が呉服店の再建を行ったという視点で主に従業員へのアプローチに重点を置いて構成しているためです。そして、大正3(1914)年の三越呉服店の新館の開店は日比の
デパート化の取り組みの一つの結実点としてとらえられ、「今日のその時は東京・日本橋に近代的デパートが誕生した時」としました。これ以前に鉄筋の呉服店(高島屋1912年)や木造の建物にエレベーターを備えた呉服店(白木屋1911)も登場しています。しかし、三越呉服店の新館は機能、規模もの面からも最大で、エレベーターと日本初のエスカレーターもそなえ、食料品などの多様な商品を揃えており、近代的なデパートの要素をほとんど備えたもので、その後の日本のデパートのあり方にも大きく影響を与えたと言われていることから、その開店の日を「今日のその時」としました。

■「士魂商才」について
今回の番組で取り上げた「士魂商才」は「武士の精神と商人の才とを兼備すること」で「和魂漢才」からの造語です。
主に明治から大正にかけこの「士魂商才」論は脚光を浴び、日本の近代化に「士魂商才」の考えが必要と唱えた人に思想界では福沢諭吉が実業界に渋沢栄一がいるといわれています。福沢諭吉は「士魂商才」という言葉は用いていませんが、著書『旧藩情』の中で「封建の残夢を却掃し恰(あたか)も商工の働を取て士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁たらんこと」主張しています。この「商工の働を取て士族の精神に配合する」ということがいわゆる「士魂商才」論とされています。日比は福沢に学びこの「士魂商才」の教えを受け、商業界で実践に移したのです。
この「士魂商才」の「士魂」については「武士の精神」ということで広義に「武士道的な精神」と認知されている面もありますが、福沢は「士魂」を「利より義を重んずる精神」であり「私より公を重んずる精神」と考えたといわれています。番組の中でゲストの内橋克人氏が「士魂」を「士道」と発言するのはこの点に重きを置き、日比の生き方に即し狭義に解釈しているためです。「士道」とは「人民の上位にある者が行うべき道義・武士の道徳」とされており「人倫」を大切にする考えで、「士道論」は主に江戸前期の儒学者「山鹿素行」によって唱えられました。

■三井家を「財閥」と表現している点について
明治37年の時点では正式な形としての「財閥」となっていませんが、実質的には「財閥」の形をとりはじめており、「三井家」だけではどのような組織かわかりにくいため、研究者の方の助言も頂き「財閥」と表現しました。

■「児童博覧会」をなぜ「児童(こども)博覧会」とナレーションしているのか?
漢字の表記通りに読めば「じどうはくらんかい」ですが日比達は「児童」にルビをふってこれを「こどもはくらんかい」と呼称していたため、日比達の表記にあわせました。なお文字スーパーにもルビをふっています。

●登場人物の言葉、エピソードなど

■日比の言葉「当時、呉服店はまだ一般社会から賤しまれていた。しかし、呉服店を近代化させることこそ国家のための大事業だ。己の仕事はこれしかない、私はそう自分に強く言い聞かせ、一大決心をして呉服店へ行った」
日比翁助述「商売繁盛の秘訣」より引用し要約しました。

■福沢諭吉の言葉「身には前垂れを纏うとも、心には兜をつけよ」
日比翁助の伝記「三越創始者 日比翁助」(星野小次郎著)より引用し要約しました。

■三井家から呉服店が切り離されるエピソードと幹部の言葉
日比翁助の伝記「三越創始者 日比翁助」(星野小次郎著)と日比翁助述「商売繁盛の秘訣」より引用し構成しました。

■日比が社員に語りかけた言葉「今我々は母体からの独立と呉服店をデパートメントストアにするという最も困難な二大革命を為さんとしている。組織をあらため、デパートメントストアにするのは容易ならざる難事である。しかし、もしこの改革を断行しなければ、我々は時勢の変遷に遅れ、自滅するより他にない。切に諸君の奮闘を祈る」
日比翁助述「商売繁盛の秘訣」より引用し要約しました。

■日比がハロッズを訪問した時のエピソードとその時の言葉
日比翁助述「商売繁盛の秘訣」より引用し構成、意訳しました。

■金時計を巡るエピソード
日比翁助追悼文集「日比翁の憶い出」より引用し構成しました。

■日比の社員達に対する言葉「接客には親切を尽くすことがなにより大切である。口先ばかりの親切ではいけない。腹の底からでた、命がけの精神でなくてはならない」
「三越小僧読本の知恵」(青野豊作著)より引用し要約しました。

■児童(こども)博覧会や少年音楽隊に対する抗議や批判と日比の言葉
日比翁助追悼文集「日比翁の憶い出」「続日比翁の憶い出」より引用し構成しました。

■日比の言葉
「自分はデパートに来てくれる人々に満足してもらえればそれでよい。ここがあらゆる社会の人々が出会う倶楽部に成り得れば、それは望外の光栄である」
日比翁助の伝記「三越創始者 日比翁助」(星野小次郎著)より引用し要約しました。

■日比の言葉
「デパートメントストアとはなんぞやと 問う人あらば、自分は泰西の同業者と共に、『社会公衆の商店』と答えんのみ」
「三越三百年の経営戦略」(高橋潤二郎著)より引用しました。

番組中に登場した資料について

●主な資料の所蔵先など
■日比翁助肖像   個人蔵・三越蔵
■福沢諭吉肖像   慶應義塾図書館蔵 
■ウッドマン・バーブリッジ肖像 ハロッズ蔵
■三井呉服店・三越呉服店の写真 三越蔵  
■ハロッズの店内の写真 ハロッズ蔵

参考文献
「三越創始者 日比翁助」(星野小次郎著  日比翁助翁伝記刊行会)
「商売繁盛の秘訣」(日比翁助述  大学館)
「日比翁の憶い出」(豊泉益三著 三越営業部)
「続 日比翁の憶い出」(豊泉益三著 三越営業部)
「予を巡る人々」(林幸平著 百貨店時代社)
「続 予を巡る人々」(林幸平著 百貨店時代社)
「百貨店一夕話」(濱田四郎著 日本電報通信社)
「『三越小僧読本』の知恵」(青野豊作著 講談社)
「三越三百年の経営戦略」(高橋潤二郎著 サンケイ新聞社)
「趣味の誕生」(神野由紀著 勁草書房)
「『敗者』の精神史」(山口昌男著 岩波書店)
「三越物語」(梅本浩志著 TBSブルタニカ)
「株式会社三越85年の記録」(株式会社三越)
「百貨店の誕生」(初田亨著 筑摩書房)
「日本の企業・経営者発達史」(高橋亀吉著 東洋経済新報社)
「士魂商才」(坂田吉雄著 未来社)
「20世紀 日本の経済人 U」(日本経済新聞社)
「新・武士道」(岬龍一郎著 講談社)                ほか 



第200回
ニッポンに学べ!タイの”明治維新”
〜「王様と私」・ラーマ五世の苦闘〜

放送日

<本放送>
平成16年11月24日(水) 21:15〜21:58  総合 全国
<再放送>
平成16年12月 3日(金) 00:15〜00:58  総合 全国
平成16年11月30日(火) 17:15〜17:58  BS2 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー

○スタジオゲスト
石井米雄 (歴史家・大学共同利用研究機関法人人間文化研究機構機構長)
1929年生まれ 京都大学名誉教授 上智大学名誉教授
専攻 タイ地域学 上座仏教比較論
著書 「タイ仏教入門」(めこん社)タイ近代史研究序説(岩波書店)「地図がつくったタイ」(訳書・明石書店)など多数

○VTR出演
※香川孝三(神戸大学教授・アジア法)「政尾藤吉伝」(信山社)
※飯田順三(創価大学教授・国際法 タイ外交史)
「日タイ条約関係の史的展開過程に関する研究」(創価大アジア研究所)
番組概要

その時:1909年3月10日

出来事:タイ=イギリス条約締結 タイの独立が確保された。
(マレー半島四州の宗主権を英国に割譲、代わりに治外法権の一部撤廃され、今に繋がるタイ国境線が定まる)
どう動いたか:自国への欧米列強のアジア植民地化を食い止め、近代的な法治国家として独立を確保する。
(第二次世界大戦が終わるまでアジアで列強の植民地とならなかったのは日本とタイの二国だけのこと)
 1868年、アジアに新しい時代を切り開く二人の王が即位した。
明治維新を迎えた日本の明治天皇(在位~1912)とミュージカル「王様と私」の主人公である父王の跡を継いだタイのラーマ五世 (在位~1910)である。二つの国は19世紀アジア各地が欧米列強に次々と植民地化されてゆく中で、最後まで独立を守った国家として開国から近代化に至る歩みに類似点も多い。
 周辺地域が次々と植民地化されていく中で、どうして陸続きの国境線をもつ国家タイだけが列強の侵略を退け、独立を保つことができたのか。そこにはラーマ五世の巧みな外交政策と自身の強力なリーダーシップによる近代化があった。富国強兵・殖産興業・行政改革・不平等条約交渉…タイが自国の権益を保ち、独立を確保するまでの過程をみてゆくと、日本の明治維新そして明治国家に範を求めていたことが浮かび上がってくる。
 番組では近代国家へと変貌するタイの近代化を同じ時代同じ脅威に晒されていた「ニッポン」との関係を交えながら描く。そこからは大国に挑むアジアの二つの姿が浮かんでくる。
番組の内容について

●1868年の考え方
明治天皇が即位したのは1867年(番組内でも字幕にて紹介してます)
ラーマ五世が即位したのは1868年です。番組内では明治天皇の即位は「1868年」とは紹介してません。明治維新の年とラーマ五世即位が同じ年であるという説明をしてます。

●「王様と私」について
王様と私のモデルはタイのラーマ四世モンクット王です。番組の主人公ラーマ五世の父王となります。

番組中に登場した資料について

●番組で使用した映画について
■DVD
「王様と私」1956年アカデミー五部門受賞作 
発売元 20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン株式会社

参考文献
※現在入手可能なものを中心にご紹介します
<「タイ通史関係>
タイの歴史 ロン・サヤマナン著(二村龍男訳 近藤出版
世界各国史 東南アジア史T大陸部 石井米雄編 山川出版
地図が作ったタイ国民国家の誕生トンチャイ・ウィニッチャク著(石井米雄訳)明石書店
<日タイ関係>
日タイ交流600年史 石井米雄・吉川利治著 講談社
政尾藤吉伝 香川孝三著 信山社
※安井てつ関連の参考資料については東京女子大学にお問い合わせ下さい。
東京女子大学ホームページ http://www.twcu.ac.jp/
<タイ仏教関係>
タイ仏教は上座仏教徒です。
詳しくは、「タイ仏教入門」(石井米雄著 めこん)をご参照下さい。
※その他、番組内で紹介したタイ語英語の著作物は基本的に、日本国内での入手は困難です。






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